
久しぶりに面白い本に出会った
鴻上尚史さんが書かれた【「世間」と「空気」】という単行本
まだ半分程度しか読み進めていないが今までにイマイチ合点がいかなかった出来事が少し理解できるようになったのがこの本です
私が合点がいかなかった事のひとつに他者の意欲と現実のギャップがありました
当社の社員でも口頭では意欲満々で積極的な姿勢の方は大勢います
私的にはその意欲や姿勢は必ず外部に対して何かしらのアクションとなって伴ってくるはず...と考えていました
でも、現実にはその意欲や姿勢はどこかでトーンダウンして期待していたアクションに結びつかないことが決して少なくありません
それを私はこの本と出合うまでは単に「本人の覚悟が足りないからだ、外部に対するアクションの反動を恐れて躊躇してしまっているのだろう」と考えていました
自らのアクションを評価(賛辞や批判)してもらうことは時には残酷な結果をもたらす場合が少なくないからです
信じられない方もいらっしゃるかも知れませんが、私の中にはその批判に対する怯えは殆ど無いと言っても過言ではないほどありません
私が公私共に判断基準の第一優先にしているのはアクションに対する結果ではなくて
常に後悔しないアクションをしているか?だけです
私の同僚や取引先・私生活で出会った方の中には私のことを快く思っていない方も必ず存在する
その存在か気にならないか!?と聞かれれば私も気になります
でも、私の(今の)力量ではその方々を導き入れる事が出来ないから快く思われていないわけで、どう足掻いたってその結果を変えることは出来ないと(今の私は)諦めているというだけなのです
自力で解決できない問題は私の中で問題として認識しても辛くなるばかりで意味がないわけです
私のことを快く思っていない方の考え方や受け止め方が変らない限り、それはどうやっても解決されないのです
だからは私は他者'評価を判断基準にすることをそれに気付いてから止めました
それよりも、後悔しない日常だけに心血を注ぐことにしたのです
常にありったけのパワーで物事と対峙しているか?力の出し惜しみをしていないか?出来たのにしなかったことはないか?
残念ながらまだまだ後悔が多い毎日ではありますが、でも時には全く後悔を覚えない日も出来る様になりました
後悔しない日常を続けること以上に私ができることはありません
それは(今の)私にとってのベストであり、ベストを尽くしたら結果がどう出ようと私の関知する事ではありません
この本を読んで気付いた最大の発見はコレです
この本によれば私は「社会」を意識している、冒頭に書いた意欲と現実のギャップの激しい人は「世間」を意識しているのだろうなぁと感じました
「世間」と「社会」の違いは日本人的な生き方と日本人以外的な生き方の違いとも言えるでしょう
勿論、私は日本人ですから日本人的な生き方も多分に包含しています
でも、こと自己評価に関しては日本人以外的な生き方を選択していると言えるのだろうと思います
著書によると(かなり乱暴な解釈ではありますが)「空気」とは「不確定な世間」であり、「世間」とは「情緒的な社会」であり、「社会」とは「論理的(反情緒的)な社会」だと私は受け止めました
「不確定な世間という空気」としいうのは掟や方向性がメンバー全員の暗黙の了解となっていない世間という意味です
だから、それがメンバー全員に共通の体感として知ら示めされるまでの間にそれに反する言動を行う人のことを空気が読めないというのです
「情緒的な社会という世間」とはコミュニティーであり、ある特定の共通項や志向性を持った方々だけの社会という意味です
私たちは時に「理屈(合理性)は判るけれどそれを承服することは出来ない」ということがあります
その承服できない要因は世間の文化であったり掟であったり暗黙の了解であったり習しや風習を判断基準の第一義にしているからです
だから合理性よりも情緒が優先される社会だと理解できるのです
最後に「合理的な社会という社会」とは肌の色や国籍や言語やコミュニティーを問わず1+1=2という共通の解を持つ社会です
意欲や姿勢と現実のギャップのある方々は、自らの判断だけでアクションが起こせず、世間体はどうだ!?掟を破っていないか?(掟を破ると仲間はずれにされるぞ~)という別の判断基準を常に意識しなければならない(のだろうと私は思います)
だから自己が決めた覚悟がどこかで歪む、外部に対するアクションとして表面化しない
覚悟を情緒的な社会という世間の上でしか構築できないのだろうと思ったのです
私の上段で書いた「覚悟が足りない」という非難は的を得ていなかったことに気付かされたということです
もし、そんなギャップの大きい方がいるのだとしたらその意識している世間の本質が何なのかを事前に見極めなければ次の外部へのアクションへは直結しないのです
続きは次回...