「左脳な伝言」

selfish.few@大建工業、1964年、岐阜県生まれ
ゼネコン勤務を経て、2005年に大建工業入社
こんな人あんな人の虜です
こんなこともしています

偉大なNo2になるが人生のテーマです

このブログに関するご意見ご感想は:村田 富士男 まで

2009年08月21日@村田 富士男「世間」と「空気」(その2)

前篇はコチラ

私にとって「世間」を意識していることと「社会」を意識していることの最も大きな違いを感じたのは3ヶ月前に亡くなった母の葬儀の時に感じていた
正確には感じていたことが今になって判ったとも言えるのではありますが...

それは母の死去に伴って私が悲しんだり涙を流したりしたことは一度もなかったという事実である
当時の私はそんな自分自身に対して「どうして悲しくないんだ」「どうして涙がこみ上げてこないんだ」と正直感じていた
「世間」的に言えば、悲しみに打ちひしがれて泣き崩れているというのが普通の反応だと私自身が思っていたし、私もそんな自分ま姿を想像していた
なのに、そうならなかった自分に驚きというか不思議さを覚えていた
その答えがまさしく「社会」を意識していたからなのだということにやっと辿り着いた

私自身は母親に対してありとあらゆる意味で後悔がない
生きている間に私に出来る可能なことは全てやりきれたと満足している
他人から見れば至らなかったこときっとあるのだろうけれど、私の中にはやり残しは何もない
だから、母が亡くなった時に「これでやっと病気と闘わなくてすむね」と純粋にそれだけ思った
母の没後に母の友人から「おかさんは息子さん(私)からの励ましの言葉にとっても勇気付けられていましたよ」と聞かせてもらった
私にとっては何よりも嬉しいひと言だった
もし「世間」を意識しているのなら、隣の芝は青く見える的に「あんなこともしてあげたかった」「こんなこともしてあげたかった」と様々な後悔が頭をよぎっていたに違いない
それはきっと私が死ぬまで私の心を支配することになるでしょう

このエピソードはご理解いただけない方も少なくないかも知れないが
実際に具体的な現象となって現れることには大差はないのである
母が生き返ることは絶対に有り得ない、問題は残った我々がその先をどう生きていくのかなのである
世間を意識している人は心に大きなビハインドを持ったまま過ごしていかなければならなくなるだけなのである

「世間」というのはとっても日本人的な匂いがする
それに対して「社会」という存在は個人主義が定着した欧米型である
でも著者は日本以外の諸外国には絶対的な宗教が存在していて個々の個人主義が力を失くしそうになった時の心の拠り所として「絶対的な神」が不安を取り除く作用をしているのだという
私は日本人以外の心を持たないので絶対的な神の存在がどの程度の心の支えになるのかは実体験として持つことが出来ないのだが
日本で言う「世間」とは諸外国の「絶対的な神」の代わりの機能を果たしているのだそうだ
その日本人にとって大切な「世間」が徐々に崩壊し始めていると著者は言う
「絶対的な神」もない「世間」もなくなってしまったら日本人はどうなってしまうのであろと著者は危惧をする

ある部分で「世間」を持たない私の生き方は、そんな時代だからこそ生まれたひとつの形なのかも知れない

2009年08月20日@村田 富士男「世間」と「空気」(その1)

久しぶりに面白い本に出会った
鴻上尚史さんが書かれた【「世間」と「空気」】という単行本

まだ半分程度しか読み進めていないが今までにイマイチ合点がいかなかった出来事が少し理解できるようになったのがこの本です

私が合点がいかなかった事のひとつに他者の意欲と現実のギャップがありました
当社の社員でも口頭では意欲満々で積極的な姿勢の方は大勢います
私的にはその意欲や姿勢は必ず外部に対して何かしらのアクションとなって伴ってくるはず...と考えていました
でも、現実にはその意欲や姿勢はどこかでトーンダウンして期待していたアクションに結びつかないことが決して少なくありません
それを私はこの本と出合うまでは単に「本人の覚悟が足りないからだ、外部に対するアクションの反動を恐れて躊躇してしまっているのだろう」と考えていました
自らのアクションを評価(賛辞や批判)してもらうことは時には残酷な結果をもたらす場合が少なくないからです

信じられない方もいらっしゃるかも知れませんが、私の中にはその批判に対する怯えは殆ど無いと言っても過言ではないほどありません
私が公私共に判断基準の第一優先にしているのはアクションに対する結果ではなくて
常に後悔しないアクションをしているか?だけです
私の同僚や取引先・私生活で出会った方の中には私のことを快く思っていない方も必ず存在する
その存在か気にならないか!?と聞かれれば私も気になります
でも、私の(今の)力量ではその方々を導き入れる事が出来ないから快く思われていないわけで、どう足掻いたってその結果を変えることは出来ないと(今の私は)諦めているというだけなのです
自力で解決できない問題は私の中で問題として認識しても辛くなるばかりで意味がないわけです
私のことを快く思っていない方の考え方や受け止め方が変らない限り、それはどうやっても解決されないのです

だからは私は他者'評価を判断基準にすることをそれに気付いてから止めました
それよりも、後悔しない日常だけに心血を注ぐことにしたのです
常にありったけのパワーで物事と対峙しているか?力の出し惜しみをしていないか?出来たのにしなかったことはないか?
残念ながらまだまだ後悔が多い毎日ではありますが、でも時には全く後悔を覚えない日も出来る様になりました
後悔しない日常を続けること以上に私ができることはありません
それは(今の)私にとってのベストであり、ベストを尽くしたら結果がどう出ようと私の関知する事ではありません

この本を読んで気付いた最大の発見はコレです
この本によれば私は「社会」を意識している、冒頭に書いた意欲と現実のギャップの激しい人は「世間」を意識しているのだろうなぁと感じました
「世間」と「社会」の違いは日本人的な生き方と日本人以外的な生き方の違いとも言えるでしょう
勿論、私は日本人ですから日本人的な生き方も多分に包含しています
でも、こと自己評価に関しては日本人以外的な生き方を選択していると言えるのだろうと思います

著書によると(かなり乱暴な解釈ではありますが)「空気」とは「不確定な世間」であり、「世間」とは「情緒的な社会」であり、「社会」とは「論理的(反情緒的)な社会」だと私は受け止めました

「不確定な世間という空気」としいうのは掟や方向性がメンバー全員の暗黙の了解となっていない世間という意味です
だから、それがメンバー全員に共通の体感として知ら示めされるまでの間にそれに反する言動を行う人のことを空気が読めないというのです

「情緒的な社会という世間」とはコミュニティーであり、ある特定の共通項や志向性を持った方々だけの社会という意味です
私たちは時に「理屈(合理性)は判るけれどそれを承服することは出来ない」ということがあります
その承服できない要因は世間の文化であったり掟であったり暗黙の了解であったり習しや風習を判断基準の第一義にしているからです
だから合理性よりも情緒が優先される社会だと理解できるのです

最後に「合理的な社会という社会」とは肌の色や国籍や言語やコミュニティーを問わず1+1=2という共通の解を持つ社会です

意欲や姿勢と現実のギャップのある方々は、自らの判断だけでアクションが起こせず、世間体はどうだ!?掟を破っていないか?(掟を破ると仲間はずれにされるぞ~)という別の判断基準を常に意識しなければならない(のだろうと私は思います)
だから自己が決めた覚悟がどこかで歪む、外部に対するアクションとして表面化しない
覚悟を情緒的な社会という世間の上でしか構築できないのだろうと思ったのです
私の上段で書いた「覚悟が足りない」という非難は的を得ていなかったことに気付かされたということです
もし、そんなギャップの大きい方がいるのだとしたらその意識している世間の本質が何なのかを事前に見極めなければ次の外部へのアクションへは直結しないのです

続きは次回...

2009年02月09日@村田 富士男先手と予防

1カ月ぶりの「乱読」エントリーである
今回は「知に働けば蔵が建つ」文春文庫 内田樹著
実はまだ全部読みきれていない(最近は通勤電車が少し空いててかなりの確立で座れちゃってついつい仮眠を取る習慣が...)

今回も数年前から虜になってる内田先生の本で、内容は内田樹研究所ブログを本にしたもの
単行本が文庫本になったもので単行本の発売は2005年11月だから既に3年以上を経過しているので話題としてはかなり時期がずれた話が多く
まだ総理大臣は小泉さんだし、郵政解散の話があったりして時間の経過のあまりの速さを今更ながらに実感するのである

その中でも特に小泉さんが総理大臣の頃の靖国参拝に関する記述は非常にためになった
公式参拝に関する是非ではなくて、その経過と結果がもたらす状態に関する記述は参考になった
唐突に参拝したり、すると言ってしなかったり、著者はそれを政治家としての信条や単なる慰霊的な行為ではなくて別の目的あるのではないか!?と推測されている

その目的の中身はさておいて、その手法を「先手を取る」と表現している
物事の何かが始まってからアクションを起こすのではなくて、始まる前に始まることを前提として既に手を打っておき
事が始まった時には既に主導権を握っていることだと、合気道の「居合い」を例に解説していて
妙に納得してしまうのであった

当然に立場やその時に持ち得る権力がなせる行為も少なくないのだろうが
私が得意としているはずの予防措置(事が起こったとしてもその時のための備えをしておくこと)とは全く逆の思想であり、そんなテクニックもあるのだなと感心しきりなのでありました

2009年01月07日@村田 富士男人間の覚悟

久しぶりの乱読シリーズである
「人間の覚悟」出版:新潮新書 著者:五木寛之 を読んだ
"とうとう覚悟を決める時が来た..."という言葉で始まる
リーマンショックから始まった世界金融危機の煽りを受けて日本経済が大打撃を受けていることは前回も書いた
著者は諦める覚悟をすることで惑わされないで生きていけると説いている
諦めるとは「明らかに究める」といい、希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると書かれている
私的には諦めると表現するよりは依存体質若しくは期待体質からの脱却だと受け止めている
きっと誰かが助けてくれる、きっと誰かが何かしてくれる...
そんな期待してしまう心の持ち主から卒業しましょうという感じか

期待=ファンタジーだと心理学の講師でもある谷口さんから教わった
ファンタジーとは夢の世界で、それが現実化する可能性は限りなく低い
なのにその夢の世界の御伽噺をあてにして日常生活を組み立てているのだとしたら
それは落胆の連続の日々となることだろう
言い換えれば他者に依存したり期待したすることを諦める覚悟とも言えるだろうか

又、人は必ず何かの犠牲の上に生きていて誰しもが悪人なのだと自覚しようという件があった
これに関しても、一般には誰しも自分は善人で良識人であると思い込んでいる
仮にそれと違う評価を受けた時に心が揺さぶられることから脱却しようというのが本質的に言いたいことのような気がした
悪評を受けると誰しも気分は良くない、心も頭も平常ではいられなくなるのだ
そんな事態を避けるためにそもそも自分は悪人なんだと自覚しようと言ってるのだと(私は)理解する

そうした上で生きた証となる成果や意義のある人生だけがすべてじゃない
ただそこで生きているということだけでも実はとっても大変なことでそれだけでも価値がある
気付かないうちに必然的な他者との関わりの中で必ず何らかの影響を与えているもので
「如何に生きるのか!?」なんて考えなくとも日々を平穏に暮らせることが何よりも大切なのだと
これも私の理解はやや違う、意義や価値を自分で自分に与えることが出来る人ならば
他者がどんな評価をしようが一切お構いなしで平常心が保てるなのである
でも自分を自分で評価して存在価値を自分で見出せる人は決して多くなく
他者から評価されることで自分の存在価値を確認している人が大多数なのだ
だから悪人だと言われると過剰に反応してしまうし、他者に(評価をしてもらう)依存から脱却できないのである

自らの人生を成功と考えるのも失敗だったと後悔するのも本当は全ては自分が決めている
他者は自分以外の人生の良し悪しに関して最後まで関わってくれるほど自分以外の人に興味なんて持っていないものなのである
そんな自らの判断を鈍らす要因は事実から派生する自分の解釈(心や思考の動き)なのである

自分なりの理解(解釈)では、冒頭の「事実を真正面から受けとめること」の真意は
まさしく解釈で動揺せずに事実とは何かを探し出す目を見つけようということのような気がした

2008年11月16日@村田 富士男異物


「イカの哲学」集英社新書 著者: 中沢新一波多野一郎 を読んだ

共著というよりは波多野一郎さんが1965年に発表された「烏賊の哲学」に中沢新一さんが新たなる解釈を加え、今の時代に失いつつある生物としての人のあり方を問うた本です

大きなテーマとしては戦争を回避できない人のメカニズムを(私には)ちょっと難しい言葉で解説してらっしゃる
個人的には戦争や紛争という人と人が殺し合うような出来事を身近なモノとして受け止められない世代ではあるが
そんなことは身近に起こらなくとも、何があっても回避すべきことだというのは、物心付いた人なら普通に導き出せる結論なのある

なのに、戦争は未だになくならない、この大いなる矛盾はどころからくるのだろう!?的な疑問はこの本を読んでくださいませ
私にはそれよりも「異物」というワードがとても気になった

生物は基本的に固有種を死守するために異物の混入を検知して排除するシステムをDNAの中に持っていて
そのシステムが唯一生殖という瞬間にだけ停止する
もっと判りやすく書けば、卵子は精子を受け容れて新しい命が誕生する瞬間である

人は知能が異常に発達したが故に地球上の生態系を破壊し、さらには自然までも回復が困難なまでに自らの暴利を貪った
ヒューマニズムという「人間中心主義」が正しいものとして傾倒して歯止めが掛からなくなった
波多野一郎さんは、神風特攻隊員~シベリア抑留~アメリカ留学という経歴の持ち主で、
アメリカ留学時代の生活のためにしたアルバイトとして、イカの水揚げ作業を手伝った
沢山のイカが水揚げされる中、中にベルトコンベアーから零れ落ちるイカを見た時に
神風特攻隊員の一人だった自分とそのイカとの類似性に気が付いた
それを「烏賊の哲学」として出版されたのである

イカだって、現に命があって海を回遊していたのである、それが今は人に食されることを運命と諦めてベルトコンベアーに乗せられている
神風特攻隊員だった(過去の)自分も、敵艦に爆弾もろとも突撃して命を落とす覚悟をしていた
イカの知能が覚悟という意志を持てるかどうかは定かではないが、擬人化して考えれば有り得ることなのかも知れない
イカも自分も「実存」しているひとつの命であることには変わりないという悟りのようなものか

イカは人にとってみれば明らかに「異物」である、でもそのイカの実存を人は感じることができる(可能性がある)
この異物と判断することと類似性を想像する力をどちらも人は持っている
中沢新一さんはその「実存」(戦時の敵に命があること)をより意識することでしか本当の平和(人と人が殺しあわない状態)は訪れないと書かれている

人間中心主義という思考は時として「自分中心主義」へと変化していることに気づかない
場合があるということなのである
人の都合の良いように...が自分の都合の良うに...と変化した瞬間を人は感じ取ることが出来ない
それは何も戦争だけではなくて、日常の生活の中にでも溢れていることなのである

それは「異物」の排除というDNAのメカニズムそのものであり、「異物」を受け容れることができるはずの人はその大切な機能を顧みなければならない

図らずも難しい話になってしまったのだが
本当は「異物」の代表として私は注射器をイメージしていた
それは中一になる娘が大の注射嫌いで、注射と言われただけで泣くわ叫ぶはの大騒動なのである
ほんの一瞬チクッとする程度の注射でどうしてそこまで...と疑問に思っていた
その理由が異物の強制的且つ意識的な混入に対する拒絶反応だったのだとやっと理解したのである
異物を受け容れられるのは理性である、異物を拒絶するのは動物としての感性なのだろう
そういう意味では我が娘は私に似ず感性に満ち溢れた子なのかも知れない

2008年10月23日@村田 富士男思い知る

 おもいし・る おもひ―【思い知る】

  つくづくと身にしみて悟る。わきまえる。
  「芸の未熟さを―・る」「どうだ、―・ったか」
                 
                     by -goo 国語・新語辞典-  

今日は楽しみにしていたコミック「ジパング No.37」(かわぐちかいじ著)の発売日だった
我が家では私に加えて子供2人も楽しんで読んでいる

その表紙の裏に著者のコメントがあって、そこに「思い知る」ことが大切だと書いてあった
その文字を目にした時に「これかぁ!」と思った

「これかぁ!」というのは、ここのところ考え続けている言葉と行動のギャップについてである
頭で理解できても、その全てが実行出来るわけではない事は前にも書いた
それは文字や言葉等の情報を自分が必要なものとして認識していないことや
具体的なアクションを起こす前に情報になった瞬間に既に答えが見えてる的な中途半端な大人の判断(という諦め)等が要因なのだろうと書いていたが
それらを端的に現す言葉を見つけ出せなかったのだ

「思い知る」は上にもあるように、つくづくと見に沁みて悟ることである
言葉や文字として理解(頭の中だけで判ったつもり)しても身に沁みて悟っていないから、
「思い知ってない人」は理解=実行に結びつかないんだなって(私の中で)合点がいった

合点がいくという表現は個人的に何故か好きである
合点がいったこと(モノ)は頭というよりも体が受け止めたような感覚で何年経っても忘れないのだと思う
そういう意味では「思い知る」ってのも同義語とも言えると思う

話は変わるが既に新しい通勤の相棒とお付き合いしている
それは
「悩む力」集英社新書 著者:姜尚中である

まだ途中までしか読んでいないけど、著者は個人主義が拡大した現代はそれより前に比べて自由になった
けれど身分制度や様々な抑圧の中で生きていたそれ以前よりも生き難い時代になっている
自分で全てのことを判断しなければならないことはとっても困難なことだからだと書いている
夢や希望を持つことすら思考の範疇になかった時代から、何でも自由で好き勝手な選択が出来る時代に急激な変化が起こっているのだと

中にはそんな環境に適用できる人もいるかも知れないが大多数の人は大きな流れの中で
「自分とは何者?」とか「生きる意味は?」なんてことを考えずに暮らしているものだとしている
これにも全く同感でまさしく合点がいく説だと思いながに読み進めている

「思い知る」ことと馬鹿みたいに難しいことばかり考えている人ばかりじゃないよということの2つが
私の中では矛盾を起こしていない、どちらもアリな話なのだと思う
ただ、「思い知る」という行為を勧んでしようと私は思っている
その理由は「思い知れない」よりは「思い知れる(=合点がいく)」ことの方がなんだか楽しそうだからである

何故、楽しいのか!?については理由はない
楽しいことは楽しいとしか表現のしようがない

2008年10月09日@村田 富士男「大人がいない...」読破

読み終えた感想
読み始めは良かったのだが、その後は目新しい情報というか気づきを得ることはできなかった

ヒトそのものがネオトニーで幼態熟成であること
差の中でも特に日本人は他国の文化と異なり「若い(幼い)」ことを歓迎する傾向にあること
更に、大人でないことを文化にしてしまう特殊能力も持っていること
大人じゃない文化としては、例えばオタクだし、漫画だし、ゲーム機である
そのいずれもが日本発の文化として他国にも受け容れられているという事実があること
そういう私も漫画を未だに読んでいる
一昔前なら大人向けの漫画はアダルトが定番だった
でも、今は(精神的な)大人の鑑賞に堪えられるほどの発展ぶりをしている
業界としての裾野が一気に拡大しているともいえるのかも知れない

そういったある意味での良い面もありながら
ニートやフリーターといった責任を取らない、将来を考えられない人たちも出現させてしまったのも事実なのである

私は個人的には膨大に流れてくる情報量の急激な増加もひとつの要因のような気がした
まさしく、それはネット社会だともいえるのかも知れないが
いつの世も「上には上がいるし、下にも下が必ずいる」
知りえる情報量に限界(自分の周りだけ)だった頃は
圧倒的に極端な人が周りに大勢存在することはなかった
でも情報量の増加で知りえる世界を一気に広げた、極端な人たちを大勢知りえることになった
「まだ俺はましな方...」と楽観的に考えてしまう頻度が高くなったのじゃないかと感じた

且つ、情報量の増加は考えて答えを出す習慣を人々から遠ざける結果ももたらした
そんな複合的な要素がいくつも重なり合って大人にならない選択を無意識にしている人たちが増えたように(私は)思う

著者は将来のコスト増を考えると、そんな甘いことをいつまでも容認していては具合が悪い
いつもは大人でなくとも必要な時には大人の対応が出来るようになりましょうねと警鐘を鳴らす形で締めくくった
(それが意識的に出来るのなら問題にはならないんだけどね...)

次のターゲットは 養老孟司 /角田光代 共著の「脳あるヒト心ある人」だぁ

2008年10月02日@村田 富士男大人がいない


新しい通勤のお供、清水義範さん著の【「大人」がいない...】である

読み進めたのはまだ半分くらい
まずは文字に対するイメージの変化から話は始まる
「老」という文字は経験も知識もあって立派な大人の象徴としての存在感が昔はあった
事実、江戸時代の将軍以下の要職には「老中」とか「大老」という肩書の人たちが存在した
まさしく彼らは時の将軍を支える知恵袋の役割を果たしてきたのだ

更に大人の定義として単に肉体的な大人(俗にいうアダルト)と精神的な大人との違いを反対語で示した
肉体的な大人の反対語は子供、精神的な大人の反対語は大人でない人
子供と大人でない人というのは決定的に違うのは雰囲気でご理解賜れるだろう
しかし、子供でも(精神的に)大人な人はいるわけで
単に、子供<大人でない人<大人という数式になるわけではない

又、日本人の「若さ」に対する盲目的な憧れを日本独特の文化として解説している
「可愛い」という表現は日本以外では大人に対する讃辞にならなず逆に侮蔑の言葉として受け取られる
それは大人として(本当の大人かどうかは別にして)認められない言葉として理解され
日本人以外のミームでは決して受け入れられない評価としなってしまうからである
ひと昔前、日本の若い女性が年配の方の仕草や言葉を「可愛い」と表現していたころがあったが「」
あれは海外では全く通じないことなのである

逆に言うとそういう独特な文化を成立させている日本は凄いことなのだとも(私は)思う
別に海外がどっであろうが、それは海外の話で(私の住む)日本には関係のない話なのだと(私は)思っている

どんな結論を導き出して終わるのかは判らないが「ネオテニー」(幼態成熟)という初めて聞く(見る)言葉からの発想はとても面白い
なるほどなぁ~と久しぶりに感心しつつ、少し前に好きだった進化についての考察を思い出したりながらら電車の中で読み耽っていた

カテゴリー「乱読」で前回ご紹介した「本当はちがうんだ日記」は昨日完読したのだが
あれ以降、心に響くエントリーに出会えなかった(残念!←かなり古いか...)
今回は「大人」がいない...は完読後の感想もぜひ書きたいなぁと密かに期待している

2008年09月24日@村田 富士男本当はちがうんだ日記


新しい通勤のお供「本当はちがうんだ日記」穂村 弘 (著)である
サブタイトルというか文庫の帯には
~この世に生れて四十数年、未だ人生リハーサル中。
......本番っていつ始まるんだ?~ と書いてある

まだ読み始めて30Pほど、「あだ名」がついぞつかなかった自分がまるで仲間外れにされているかのように恥じ
買い物をしたレジでつり銭を財布に入れる時間がいたたまれなくて上着やズボンのポケットに小銭が溜まってしまう習性を嘆いく「現実圧」
本当の自分はこんなじゃないんだぞ~とやや自虐的に書いている

中でも、「あたまたち」の古本屋の張り紙の話は笑えた
「女子〇〇生は立読自由」
来店客に注意を促すための張り紙には店舗側の真意がちゃんと含まれているという話
私が当事者である女子〇〇生だったら逆に絶対に立読みはしないだろう
だって、その裏側にある(ただならぬ)真意が文字から溢れ出ていそうだからである
当事者じゃない成人の男性の私としては冗談の判る店主(オヤジ)だなぁと思うのである

人の真意が露になった時ほど恐ろしいものはない
そこには強欲とも言えそうな本心が詰まっていそうだからである
張り紙という一方的なコミュニケーションツールは弁解の余地を与えてくれない
対面して話しているのであれば、イントネーションとか表情とかでその本気度を相手に伝えられるのだが
文字媒体はそこに居ない限り補足説明のしようがないのである

そういう意味ではこのブログも同様であるが
張り紙と違い真意を理解してもらうために無制限に書き綴ることができる
但し、それも各エントリーをちゃんと全部読んでくれた人という限定は付いたりするけど
逆説的には真意を隠すために文字や言葉を多く並べるということもある
そう考えてみると私の過去のエントリーもその二つに分類することが出来るかもしれない
いつか時間があったら、密かに分類してみよう

まだまだ、「本当はちがうんだ日記」には楽しませてもらえそうである

2008年09月13日@村田 富士男意識≪想像

「≪」なんていう数記号が本当にあるのかどうかは数Ⅰ教科書の途中までしか勉強しなかった私には分らないが
「<(より小さい)」の強調系で「≪(より非常に小さい)」という数記号らしい

想像とは、目の前に与えられた課題を理解した瞬間に
「なんとなくできそう」、「絶対にこんなこと出来ない」等などと人は感じる
そこには明確な根拠がなくとも、そう思ってしまうものである

意識とは、目の前に与えられた課題を理解した瞬間に
「何としてもやらべばならない」等のように自らに動機づけをまさしき意識的にすることである

この二つはそれぞれ体内で起こっていることだが全く別次元の作用で
想像が否定したものは意識で強制的に肯定したとしても成すことができない

わかりやすく書けば、某テレビ局の夏のイベント番組の100kmマラソン
仮に私に挑戦依頼が来ても私は即座に断る、だって「絶対に10kmすら持たないと思っているから」
それが業務命令だったとしても私は出来ない理由をありったけ並べて挑戦すら辞退するに違いない
私は走ることも歩くこともできるのだから、物理的には100kmを走破する可能性はゼロではないはずなのである
でも私の想像力は100kmを走破して、達成感に満ち溢れた爽やかな笑顔で挨拶している私を思い描くことは例え何があっても、例え天と地がひっくり返ったとしても、例え女房に離婚届を突き付けられたとしても絶対にできない

今回のお題を書き直すと「意識は想像より非常に小さい」ということ
正確には意識の力は想像の力に絶対に勝てないのである

で、どうするかと言うと...
解決策はとても簡単なのである、どんなことがあっても「俺なら絶対に出来る」と思えばいいのである (*^^)v
そうはいっても、思っちゃうことは思っちゃうわけで出来なさそうなことは出来なさそうなのである
だから、まずは出来なさそうと思っちゃった時の自分の想像の過程を冷静に分析する習慣をまずは身につけることである
出来ないと思うことは一瞬である、それは心が恐怖を覚えた瞬間ともいえる
その恐怖の実態を理解することで、出来ないと思っちゃうがは少しづつ変わっていくのだと思う

( エドはるみ 113kmマラソン 二日目朝 映像 )

でもでも、100kmマラソンには私は絶対に挑戦しないのである

2008年09月10日@村田 富士男私を変えたひと言 その1

原田宗典著の「私を変えたひと言」を一気に読んだ
著者の人生の中で、転機となったいくつかのひと言について著者の思いを書き綴っている
そこで、私にとっての「私を変えたひと言」を思い浮かべてみた

良い意味で記憶に残っているのは高校二年の時の担任のひと言ぐらいしかない
「村田の(掃除中の)モップの使い方は天才的だな」と褒められたこと
学業の成績で褒められた記憶は残念ながら全くない
特別な技を持ってたわけではないのだが、モップのヘッドの部分を巧みに操っている自信はあった
そんな些細でマスターベーション的なプチ自慢に他の誰かが気付いてくれたことが
未だにとっても貴重な成功体験としてリアルに思い出される
適切な言葉が見つからないのだが、もの凄く嬉しく感じていた記憶が残っている

良くない方面では、二十歳というとても大切な1年間を闘病で棒にふった後の母親のひと言
「入院中には話せなかったけど、あなたは本当は医者から(社会復帰は無理だと)さじを投げられていたんだよ」
あぁ、俺は一度死んでたんだ...と思った
運良く二度目の人生を生きるチャンスをもらったんだ、今までとは違う自分で生きてみようと密かに決意した記憶が残っている

ここまで書いて思い出したことがある
それは他人から言われた言葉ではなくて、自分の心の中でつぶやいていた言葉、時期は高校入試が終わった頃
「過去の自分は捨てよう」、幼少から中学を卒業するまでは無口で大人しい子というのが私に対する評価の大半だった
自分の中ではそんな自分がとても嫌いだったし、本当の自分は違うタイプのはずと思っていた
でも、友人関係や住んでいる環境が私の変化を受け容れてはくれない
一度貼られたレッテルを覆すことは非力な私には無理だった
高校進学は環境が劇的に変る、昔のそんな私を知る人も極端に少なくなる
幼心に自分を変えるのは今しかないと真面目に自分に言い聞かせていた

きっと、まだまだ私を変えたひと言ってのは沢山あるような気がする
思いつくたびにこここにロクとして残しておきたいと思う
その時々の嬉しさや悔しさや悲しさや切なさや怒りは、まさしく私の人生であり
その都度、何かを蓄えたり捨てたりして、今の自分を構成している歴史に他ならないからである

ここのところ、書きたいネタがいくつかあった
ひとつは自民党の総裁選騒ぎの愚かさと国民を今一度愚弄しようとする情けなさであり
国民(というか有権者、というか少なくとも私)はそんなに浅はかではありませんよと書きたかったのと

たまたま、ネットニュースでたまたま見かけた「自殺予防週間」(9/10~9/16)という企画に疑問を投げかけたかったのだが
何故か、うまくたまとめることができなくて数日空きを作ってしまっていたのです

今夜は無理して書いた感が否めないなぁと思いつつ、眠いのでもう寝る

2008年09月05日@村田 富士男新しいお供

通勤電車の中での新しいお供を購入

「傷つきやすくなった世界で」 石田衣良 著


もうひとつ


「わたしの普段着」 吉村昭 著


そして、もうひとつは...

「私をかえた一言」原田 宗典 著である

作者には何の関連性もエッセイだということ以外には脈略もない、ただ適当に選んだだけの乱読派である
原田宗則さんは以前に何冊が読ませていただいたことがあるが
石田衣好さんと吉村昭さんはどちらも初体験である
3冊あれば1ヶ月くらいは楽しめそうである
感想は気が向いたらエントリーしてみます

そうそう、「傷つきやすくなった世界で」の帯には「痛みに耐える力があなたに湧いてきますように」って書いてある
痛みに耐える力...ってなんだかとっても日本人的

某企業の社内ブログより...「ミートバイバイが治らない」ってルー大柴でも思いつかないと思う