2009年08月21日@村田 富士男「世間」と「空気」(その2)
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私にとって「世間」を意識していることと「社会」を意識していることの最も大きな違いを感じたのは3ヶ月前に亡くなった母の葬儀の時に感じていた
正確には感じていたことが今になって判ったとも言えるのではありますが...
それは母の死去に伴って私が悲しんだり涙を流したりしたことは一度もなかったという事実である
当時の私はそんな自分自身に対して「どうして悲しくないんだ」「どうして涙がこみ上げてこないんだ」と正直感じていた
「世間」的に言えば、悲しみに打ちひしがれて泣き崩れているというのが普通の反応だと私自身が思っていたし、私もそんな自分ま姿を想像していた
なのに、そうならなかった自分に驚きというか不思議さを覚えていた
その答えがまさしく「社会」を意識していたからなのだということにやっと辿り着いた
私自身は母親に対してありとあらゆる意味で後悔がない
生きている間に私に出来る可能なことは全てやりきれたと満足している
他人から見れば至らなかったこときっとあるのだろうけれど、私の中にはやり残しは何もない
だから、母が亡くなった時に「これでやっと病気と闘わなくてすむね」と純粋にそれだけ思った
母の没後に母の友人から「おかさんは息子さん(私)からの励ましの言葉にとっても勇気付けられていましたよ」と聞かせてもらった
私にとっては何よりも嬉しいひと言だった
もし「世間」を意識しているのなら、隣の芝は青く見える的に「あんなこともしてあげたかった」「こんなこともしてあげたかった」と様々な後悔が頭をよぎっていたに違いない
それはきっと私が死ぬまで私の心を支配することになるでしょう
このエピソードはご理解いただけない方も少なくないかも知れないが
実際に具体的な現象となって現れることには大差はないのである
母が生き返ることは絶対に有り得ない、問題は残った我々がその先をどう生きていくのかなのである
世間を意識している人は心に大きなビハインドを持ったまま過ごしていかなければならなくなるだけなのである
「世間」というのはとっても日本人的な匂いがする
それに対して「社会」という存在は個人主義が定着した欧米型である
でも著者は日本以外の諸外国には絶対的な宗教が存在していて個々の個人主義が力を失くしそうになった時の心の拠り所として「絶対的な神」が不安を取り除く作用をしているのだという
私は日本人以外の心を持たないので絶対的な神の存在がどの程度の心の支えになるのかは実体験として持つことが出来ないのだが
日本で言う「世間」とは諸外国の「絶対的な神」の代わりの機能を果たしているのだそうだ
その日本人にとって大切な「世間」が徐々に崩壊し始めていると著者は言う
「絶対的な神」もない「世間」もなくなってしまったら日本人はどうなってしまうのであろと著者は危惧をする
ある部分で「世間」を持たない私の生き方は、そんな時代だからこそ生まれたひとつの形なのかも知れない
